当山縁起

「明治16年 北方村誌」より

本堂

本堂

法見寺の所在する北方地域は、草創干支不詳なるも、古より葛飾郡に属し、小金領八幡庄に隷す。口伝に北家とは、天平年間淡海公の第二の御子参議民部卿、房前親王の任地なり、京に於いて君の居館は北に在る故、北家と称すと云う。然して此の君この地に御幸ある際、仮殿を設けてお宿を玉う時、帯たる劒の七宝はめ飾るを見て俗人等、感称して宝劒と云い、館を北方殿と云う。卒に村号を北家と更称する。

其の後、建長の頃、中山太田乗明一草庵を営み、その室を移住せしより北方と更称し夫人佛果を修する故、その庵を法顕と云う。現在の法見寺是なり。日蓮宗に属し妙法山と号す。本郡中山村法華経寺の末流なり。境内に七面霊堂が安置してあり、身延山七面山と同木のご尊体にして、安産守護の霊神なり。

応永27(1420)年8月、中山法華経寺6世兵部阿闍梨日薩上人の創立なり。其の後幾100年の星霜を経て今日いたる。


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法見寺と七面堂

4月の七面堂

4月の七面堂

当山はかつて修験阿闍梨思念の舎跡で、建長(1249〜56)年のころ中山の領主太田乗明が当地に一草堂を建て七面大明神を奉安したのがはじまり。のち応永27(1420)年に中山法華経寺6世日薩が精舎を創建して妙法山法見寺と公称した。

旧本堂と七面堂は木造萱葺きで老朽化し、さらに昭和19(1944)年に爆弾の戦禍を被り、損傷が著しかった。戦後の農地改革、自作農創設特別措置法が施行され、法見寺の田畑は只同然に小作人の所有となり、逆に法見寺は小作人となり、住職は法衣を野良着に、木剣(祈祷の法具)を鋤鍬に代えて農作業に励んだ。

以来幾多の苦難を乗り越えて、32世照英院日幹が苦心して仮修復した。33世照玄院日義は宗祖700遠忌報恩記念事業として昭和53年11月本堂、客殿、昭和58年5月七面堂を新築し、更に山門修復、供養塔観音像の安置を勧め、古刹としての伽藍を整え寺観を一新した。

当山安置の七面大明神は身延山と同樹同体の御尊像と伝えられ、安産守護・疫病退散の霊神として北方(ボッケ)の七面さまと称され親しまれてきました。

地元古老の話では明治時代に北方村に疫病が流行った時、七面様の御宮殿をお神輿のように担いで村内を廻ったところ疫病が鎮まったと伝えられている。

毎年5月9日に行なわれる大祭には遠近を問わず多くの信徒が参詣する。


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